音楽って素晴らしい♪

 音楽だけのことを綴っているわけではありませんが、音楽の素晴らしさが伝えられたらと始めました。大きく路線が変わることもしばしばですが、どうぞ宜しくお願いします。

2004年12月

いとこからの電話の後でこんな記事を。。。

 転倒が元で、脳挫傷となって入院した、叔父。図らずも父の命日に手術をうけることになって、今は気管切開をする状態に。先ほど、いとこからの電話の音に驚いたけれど、結果は凄く良くなって来たとの報告に、胸を撫で下ろしたところ。

 続けて新聞を読んでいたら、こんな記事が、神奈川の病院脳死の新生児延命中止親と相談基準なく、議論は必死などというタイトルが。

 神奈川県の病院が昨年、「脳死」と診断した新生児の両親と話し合って延命治療を中止し、人工呼吸器を外していたことが5日、分かった。赤ちゃんは両親に見守られ心停止を迎えており、病院側は、脳死を判断材料に安らかな最期を模索する「緩和ケア」の実践例と位置づけている。日本上にか学界が今年実施した全国の病院実態調査では、脳死診断を機に15歳未満の子供の治療を中止する動きが複数確認された。脳死判定基準が確率していない三ヶ月未満児の今回のケースは、手探り状態が続く子供の終末医療の苦悩を示し議論を呼びそうだ。

 病院は「臓器移植と無関係に、重症度を客観的に評価するのが診断の目的で、赤ちゃんの状態を親に理解してもらうのに役立った。基準が未確立であることも伝えた上で話し合いを重ね、治療を中止した」としている。

 病院の説明によると、赤ちゃんは昨年8月、別の病院で仮死状態で生まれ、直後に救急搬送された男児。生後5日以降に脳死診断を実施。深昏睡や瞳孔散大、脳幹反射消失を認め、聴性脳幹反応や無呼吸テストの結果も踏まえて「脳死状態と考えられる」と判断した。

 脳波は完全に平坦ではなかったが、新生児脳死の特徴と考えられるという。看護師やソーシャルワーカーも同席して両親に説明。

 話し合いを重ねた上で、両親の意向を踏まえ同9月に生後18日で人工呼吸器のチューブを抜き、赤ちゃんは心停止した。

 生後三ヶ月未満は脳死診断が困難とされ判定基準が未確立のため、生後三ヶ月以上を対象に旧厚生省の研究班が2000年に公表した「小児における脳死判定基準」を踏まえたという。

 透明性確保へ現場苦悩

 <解説>脳死診断を契機に子供の延命治療を中止する動きが5日、明らかになった。特に判定基準が未確立の新生児のケースは「死が迫ったあかちゃんの治療をどこまで続けるべきか」との重い問いに直面した新生児医療の苦悩を反映している。

 治療方針選択の前提になるのは、赤ちゃんの重症度の評価だ。「治療を続けても回復の見込みがない」と医師が経験や感覚で判断するだけでよいのか、少しでも客観的な根拠はないかという切実な養成が、脳死診断につながったといえる。

 脳死が絡むケースに限らず、医療現場では赤ちゃんの治療中止が「緩和ケア」 の一環として一部で行われてきた。だが、赤ちゃんに本人の意思表明はあり得ない。親の側は「できるだけのことをしてあげたい」から「何もせず自然に任せたい」までさまざまだ。揺れ動くことも珍しくない。

 親の意向と赤ちゃんの「治療を受ける権利」が常に一致するわけではないところにも難しさがある。病院側が救命の可能性があるとして治療を提案しても、。重い障害を受け止められず親が拒否する場合などがそうだ。

 加えて、医療従事者間でオープンな議論がなされず「親に決めさせるのは酷」と医師が独断で治療方針を決めがちな問題点も指摘されてきた。

 神奈川県のケースでは医師以外のスタッフも参加し、親と何度も話し合いを重ねたという。透明性を高め、さまざまな立場から意見を交わす。判断を誤る可能性を少しでも減らすには、こうした取り組みが最低限のルールとして必要不可欠だ。。。

 兄の場合は難産の末だったらしい。『オギャー』という声も母は聞かなかったと聞いている。一つの命が宿り、そしてやがて生まれる命。今こうして元気に暮らせる私が居るのも、母の苦労があったからだと、感謝せずには居られない。。。一方、私の場合は、赤ちゃんを一人この手に抱くことも出来なかったけれど、日本全国の赤ちゃんがどうか健やかにと願わずには居られない。。。

『震災であきらめた道、もう一度』

 『夢舞台再起の第九』と題して、豊中の江口さん妻後押し、ソリストデビューこおんな素敵な記事を見つけましたので、紹介させてください。

 『阪神・淡路大震災の復興祈念コンサート『第九in芦屋』が5日、芦屋市の芦屋ルナ・ホールで開かれ、大阪府豊中市で被災した江口輝博さんがテノールのソリストとして舞台デビューを果たした。震災で一度は声楽家の道をあきらめながら、妻の後押しで再起した声楽家が、歓喜の歌声で聴衆を魅了した。

 コンサートは同市のNPO(特定非営利活動法人)芦屋芸術村の主催で今年3回目。芦屋フィルハーモニー管弦楽団など大半が震災を経験したという150人が出演し、ベートーヴェン交響曲第9番を合唱した。

 高校時代にテレビで第九の合唱を見て、「自分もあの舞台に立ちたい」と声楽家を志した江口さんは、音大を卒業した後、福祉の仕事をしながらレッスンを続けていた。震災当時は音大大学院の進学に向け準備中だったが、豊中市の自宅が半壊。仮設住宅に入居するなど暮らしが一変し、歌い続ける余裕をなくした。

 その後、1997年に結婚。子どももうまれたが、声楽家になる夢は捨て切れなかった。そんな夫の思いを知った妻の美智代さんに、「もう一度頑張ってみたら」と背中を押され、昨年5月、レッスンを再開した。

 コンサートでは、管弦楽団の演奏が止んだところで、江口さんが伸びのある歌声で独唱。最後は150人の合唱と演奏で最高潮に達した。

 盛大な拍手を受けた江口さんは「震災から丸10年を前にやっとスタートラインに立てた」と感無量の表情。「これからも被災地を勇気付ける歌声を届けたい」と目を輝かせた。(安藤文暁)』

 声楽家になること。。。そんな夢を奥様が後押しされる。なかなかできることではないと思う。先々のことが心配だから。それでも、勇気を振り絞って決心されたお二人。『被災地を勇気付ける歌声』。。。是非とも響かせ続けて欲しい。

早くも12月も6日目に。。。

 地元紙の『正平調』というコラムにこんなことが載っていましたので、紹介させていただきます。

 東京・靖国神社の境内を散策していたら、古い大砲た目に留まった。ロシア製とあるが、日露戦争関係の品ではない、安政年間の日露和親条約ゆかりの戦艦砲とされる。

 1854(安政元)年、日米和親条約が締結された、この年、ロシアもディアナ号で来航したプチャーチン提督が開国を迫った。伊豆・下田で交渉中の12月23日、巨大な安政東海地震が発生した。船は津波で大破しながら流された日本人を救出。さらに提督は船医の強力なども申し出た。

 デ号は大型の洋式木造帆船で、設計図などをもとに、伊豆・戸田村の舟大工らがわずか百日で新造・進水させた。プチャーチンは感謝して「ヘダ号」と名づけ、デ号の大砲52門を幕府に贈った。

 この日露交渉に幕府を代表して当ったのは、幕臣のかわじとしあきらだった。プチャーチンはペリーのような威圧外交をせず、経験のないはずの川路も対等に渡り合い、現在の北方4島が日本領土と条約で明記された。

 後日談も興味不快。船大工の造船経験が浦賀ドック建設につながり、近代造船に貢献した。外交史で評価される川路は江戸開城の翌朝、日本初とも記録される短銃自決した。明治後期、自由詩への変革者として知られる川路柳紅は孫である。

 未知の国同士が出合って、150年。その間二度の戦争という不幸はあった。来年2月以降にプーチン大統領が来日する。日本側の焦点は北方領土問題だ。この際、当初の友好的外交を思い出すと共に、小泉首相には川路のような交渉力を期待したい。。。
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