音楽って素晴らしい♪

 音楽だけのことを綴っているわけではありませんが、音楽の素晴らしさが伝えられたらと始めました。大きく路線が変わることもしばしばですが、どうぞ宜しくお願いします。

2005年12月

脅かされる「人間の安全保障」

 21世紀の針路と題して、今日の地元紙で、私が大好きな客員論説委員の内橋克人さんが、述べていらっしゃいますのでそのまま引用させていただきます。

 『06年度予算が示す新たな「構造問題」 

 小泉内閣は2006年度一般会計予算の政府案を決定した。5年に及ぶ同政権にとって最後となるこの予算案には、2本の旗が掲げられている。

 一つは8年ぶり80兆円を切った一般会計であり、もう一つは5年ぶりに30兆円以下に抑制された新規国債発行額である。巨額の財政赤字が国家危惧として喧伝されるこの国にあって、巧みな数字合わせでひねり出された2本の旗は、財政健全化への一歩として、マスコミ対策上、十分すぎるほどの効果を発揮した。

 これを報じるメディアの多くは、予算案に象徴される小泉「構造改革」なるものが、いま、もっと深刻な、新たな「構造問題」を生み続けている現実に触れていない。

 二つの旗印を可能にしたのは、歳出における地方向け補助金の削減、他方で歳入における税収増である。好調とされる景気が税収増を見込ませている。

 新たな構造問題とは何か。第一に「働く貧困者」の激増である。第二に「廃村寸前集落」の加速とこれを放置する政策をあげなければならない。21世紀日本の命運を決める「新たな構造問題」と引き替えに、小泉構造改革は国民から甘い拍手を受け続けている、。

 前者が「ワーキン・プア」の大量排出という社会問題であり、後者ははやく「限界集落」(大野昇・元高知大教授)なる言葉をもって指摘された現実の深化にほかならない。

 進む「人間リストラ

 ワーキン・プアとは、同一世帯で1人ないし複数のものがフル・タイムで働いているにもかかわらず、所得が生活保護世帯の給付水準を下回り、最低額の生活水準を保つことのできない新たな貧困階層のことだ(後藤道夫ほか著「日本のワーキン・プア」旬報社)。

 今回の景気好転は2003年を契機としている。同年、日本経済に何があったか。

 03年、東証一部上場企業の経営利益は72%超もの急増を記録した、翌04年にも27%の大幅増を続け、来る06年3月期においても連続増益の記録更新となろう。

 では、この間、それら企業の売上高はどうだったのか。03年はわずかに1.2%増、04年もまた1.9%の増にすぎなかった。企業の売り上げが1%台しか増えないのに、なにゆえ前年比で7割もの利益増が可能となったのか。すさまじいばかりの人間リストラに由来する苦い成果であったことはいうまでもない。

 正規雇用を一挙に減らし、これを派遣、パート、請負業から送り込まれるフリーターなど非正規雇用に置き換えた。企業の現場はその日暮らしのオン・コール・ワーカー(電話一本で呼び出される)で満たされた。

 人間リストラを加速させたものは、当初はネガティブ・リスト(原則禁止)であったはずの労働者派遣法を、財界の思うままに「原則自由」へと、いとも簡単に「原則放棄をやってのけた小泉政見、その推進役、現・規制改革・民間解放推進会議である。

 かくて急増したのが労働の解体なのであり、「働く自由」の召し上げと「働かせる自由」の無際限な拡大であった。

 企業はなぜ正規雇用を非正規雇用に置き換えていくのか。同一労働に従事しながら、正規に比べて4割といわれる低賃金の処遇、さらに、たとえば年金掛け金の会社負担分を逃れるためである。明らかなILO(世界労働機関)条項違反である。

 こうして年収3百万円未満の労働者が過去5年で30%以上増加し、今働く人の3人に1人が非正規雇用での労働を余儀なくされている。「働く貧困層」の拡大が続く。

 加速する集落崩壊

 他方、限界過疎とされる集落は国土の53%に達した。小泉政権の都市重視・地方切捨て政策がもたらした集落の崩壊は、かつて「均衡ある国土の発展」を掲げた時代を幻の彼方へと消し去った。

 新たな貧困層の大量輩出、その固定化、そして国土の半分以上を被う集落荒廃は、21世紀日本に何をもたらすだろうか。06年度予算に掲げられた2つのシンボルは、以上に述べた新たな構造問題のさらなる深化を予言する。

 脅かされているのは「人間の安全保障」なのであり、日本という国を見舞う「社会統合」の危機を憂えずにはいられない。』

 働けど働けど、我が暮らし。。。と、かつて石川啄木が歌に詠んだ、そのままの暮らしを余儀なくされる。一体いつまでこんなことが続くのだろう。やはり、年収2500万円の世界の人には分からないのじゃないだろうか。。。

『いとし子よ』

 12月18日の日曜日、私が何かにつけてお世話になった、ある方の「長寿をお祝する会」がもたれ、午後の半日を本当に久し振りに大阪府堺市で過ごすことになった。

 堺市で二つの合唱団に参加していた私。たまたま『第九』を歌う方の合唱団で知り合ったこの人との交流が始まった。ことに、『第九』の練習が終わると、自転車に二人乗りさせて頂いたものだった。その合唱団の団長さんご夫妻も加わっての祝賀会は本当に賑やかで、始終合唱が絶え間なく響き渡った。

 さて、その中でとても素敵だったのは、『みんなのうた』

 『1.ひとりの歌も うたってきたさ みんなのうたは とてもすばらしい

   いつかまた会おう 今日のように うたいながら

   いつかまた会おう すばらしい仲間に


 2.さみしい時も 涙のときも みんなのうたは いつもここにある

   いつかまた会おう 今日のように うたいながら

   いつかまた会おう すばらしい仲間に


 3.恋する歌も たたかううたも みんなのうたは いつもひびいてる

   いつかまた会おう 今日のように うたいながら

   いつかまた会おう 素晴らしい仲間に。。。』


 私は歌集には書かれていなかった、作詞者とか作曲者のことがとても気になって、歌集を貸してくださった方に尋ねてみた。そしたら、今は全盲に近いけれど、元々は関西合唱団で頑張っていらした、現在岡山にお住まいの原田義雄氏だとお伺いし、更に素敵な歌を紹介してくださることになった。合唱団員の一人が先日その楽譜を送ってくださったので、ここに紹介させていただきます。題名は「いとし子よ」とあります。

 『いとしごはー いまひらくはなのように わたしをーしんじてー ひとみを あげーーる

 いとしごはー いつかそのあしでたち わたしをふりかえりー そして でてゆくー

 このりょうてのおもみー それはちきゅうのおもさー

 このむねのー ぬくもりだきしーめーてー

 このりょうてのおもみー それはちきゅうのおもさー

 このむねのー ぬくもり それはあーいー

 でてゆくー せかーいがー どんなところかー 

 こころいためるー ばかりのー ははにはなるーまい

 でてゆくー せかーいがー せんかでー ちぬられーないでー

 みおくるー ははにはー けっしてー なるまいー

 このりょうてのおもみー それはちきゅうのおもさー

 このむねのー ぬくもりだきしーめてー

 このりょうてのおもみー それはちきゅうのおもさー

 このむねのー ぬくもりそれはー あいー

 いとしごよー おまえのみらいつくるのは 

 いまわたしたちがー てをとりあうーこと

 いとしごよー おまえとあゆむためにー

 いまわたしたちはー こえをあーげるー

 このりょうてのおもみー それはちきゅうのおもさー

 このむねのー ぬくもりだきしーめてー

 このりょうてのおもみー それはちきゅうのおもさー

 このむねのー ぬくもり それは あいー

 このりょうてのおもみ それはちきゅうのおもさ

 このむねのー ぬくもり それは あいー』

 昨日は午前中を仕事先の厨房の大掃除。帰りに美容院へ寄って自宅へ戻ったら、たまたま大好きな黒木瞳さん演じる『二十四の瞳』をやっていて、釘付け状態に。赴任していた小学校で日々を過ごし、いつの間にか戦争は激化してしまう。「兵隊さんは嫌いだ!」と発言したことが問題となり、教師を辞めることになってしまった。また、ジャングルの中で命からがらという状態に陥り、それでも先生が仰った「生きて帰って来て」の言葉通りに傷痍軍人として帰国を果たせた教え子のことなどが描かれていて、涙無しには語れず、思いっきり泣いてしまった。何か、この『いとし子よ』と重なる感じがして、紹介させていただきました。

「なし崩し」の海自派遣

 地元紙の総合欄には、『この国の座標』という記事があって、今日はその5回目。ちょっと気になったので、そのまま引用させていただきます。

 『「艦船を白く塗り、自衛艦旗を国旗にしてはどうかと…」

 東京・六本木にあった防衛庁の事務次官室。統合幕僚会議議長と陸海空の三幕僚長に次官の依田智治がおもむろに切り出した。首相海部俊樹がそう言っているという。

 船体を白くして、自衛艦旗の「旭日旗」を日の丸に替え、軍事色を薄めようと考えたようだ。「とんでもない」「ばかげている」。統幕議長らは一斉に反発した。

 90年8月2日、イラクがクウェートに侵攻。「護憲ハト派」の海部は月末の記者会見で「自衛隊の海外進出は考えていない」と言い切り、政府は他国籍軍への資金拠出を決定する。

 しかし米国からの圧力と自民党内からの突き上げに、派遣せずの方針は揺らぐ。政府は10月、多国籍軍の後方支援などに自衛隊を参加させる国連平和協力法案を提出したが、野党の猛反発に遭い1ヵ月足らずで廃案に追い込まれた。

 依田が制服組幹部と会合を持ったのは、そのころだ。91年1月17日には湾岸戦争が起き、40日余りで終結。人的貢献は間に合わず、泥縄式に海上自衛隊掃海艇の派遣検討が始まった。

 「考えられない話もあったが、それが当時の空気。だけど掃海艇は最後のカード。とにかく出してくれ、と。議論はあまりなかった」と当時海上幕僚長の佐久間一。

 船を白く塗る話は消えたが、掃海舞台は機雷処理に参加した国の中で唯一、護衛艦を伴わず武器も最小限にとどめ、防御は米海軍に頼った。

 「停戦で安全だから出した。いけないことばかり並べたら何もできなかった」と海部は言う。

 だが「なし崩し」の批判の中で政府が、派遣に積極的な外務省などにひきすられ「安全」と言いくるめることに腐心したのが実態だった。

 海自掃海舞台はペルシャ湾で計34個の機雷を処理。約3ヵ月の任務を負え91年9月下旬、帰路に。不測の事態に備え現地で砂を買い掃海艇の艦橋に積んだ土のうはインド洋で捨てた。

 「東京から『余計なものは持って帰るな』と言われてね。ドボーン、ドボーンと葬送式をやった」と掃海部隊指揮官を務めた落合。「危険な海域」だった証拠の砂はペッパーソースの瓶に詰め、手元にある。

 米国から高く評価された掃海艇派遣。落合らの出発前に廃案になった法案は、国連平和維持活動(PKO)協力法案に衣替えし92年6月、成立した。(敬称略)』

 いつの間にか、イラクへ派遣されるのは当たり前。。。みたいな。そして、また派遣期間延長が決まりつつある。。。

バッハの教会カンタータ。。。

 全193曲を演奏した、福永吉宏さんのことが、今日の地元紙の『人』欄で紹介されていましたので、そのまま引用させて頂きます。。。

 『「ここまで来られたのはいい仲間がいたから。支えてくれた周囲のおかげ」。11月上旬、約18年かけてバッハの教会カンタータ193曲の全曲演奏を達成した。

 53回目となった最後のコンサートには小さな教会に普段の倍異常の約400人が集まった。初回から一緒に続けてきた4人や、関東や東北から演奏のたびに駆け付けたメンバーとともに大きな拍手を浴びた。

 1981年にプロの演奏家や声楽家仲間約40人で楽団「京都・バッハ・ゾリステン」を結成。毎週の礼拝のために作られた一連の声楽作品の全曲演奏を、指揮者として始めたのは1987年。31歳の時だった。「ずっと続ければ50歳ごろには終わるだろうと気軽な気持ちだった」

 コンサートで赤字がつづいたり、全パートの楽譜がそろっていない曲があったりと苦労の連続。「似た作品があると、作曲が間に合わず再利用したのかなと想像したり。バッハの軌跡をたどるようで楽しい作業だった」と振り返る。

 クラシック好きだった父の影響でレコードに囲まれて育った。11歳からフルートを始め、大阪芸大を卒業後、プロの演奏家に。大阪芸大で合唱の指導もしている。

 次はアマチュア合唱団でバッハに挑戦する計画だ。「バッハになじみがない人や子どもにも身近に感じてもらいたい。18年の経験をどう生かすかが課題だ」。声楽家で楽団のメンバーでもある妻と長男の3人家族。京都市出身。49歳。』

 同じ世代の人かこんな大活躍をされているのは読んでいて心地良い。近くならアマチュア合唱団の仲間入りをしたいところだけど。。。淡路島からではちょっと無理かなぁ。。。?
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