12月24日付産経新聞の第一面には、死を考える 第6部葬送の行方 の7回目として、命の尊さ伝える最高の場 として述べられていましたので、そのまま引用させていただきます。
『白いユリや紫色のカトレアをあしらった小さな祭壇には、孫の幼稚園で撮った故人お気に入りの写真が遺影として飾られ、両脇の「親族一同」という供花だけが目立っていた。今年3月、堺市の市立斎場で営まれた井上恵美さんの母、啓子さん(享年55)の葬儀は典型的な「家族葬」だった。
胆管がんで昨年10月から入退院を繰り返した末の最期だった。遺体には、買っただけでほとんど袖を通すことのなかった赤いバラの柄のツーピースを着せた。長い闘病生活をねぎらい、風呂で全身を洗ってあげる湯灌(ゆかん)もした。派手さはなくとも、心を込めて見送ったつもりだった。それでも恵美さんには心残りがあった。
「友達の多い人だったから、もっとにぎやかにお別れさせたほうがよかったかな、と・・・」
家族葬を選択したのは恵美さん本人だった。小さな孫たちも含めた20人の親族を除けば、参列者は通夜も併せて計10人。一家が大阪北部から堺に越して2年ほどだったこともあり、知人らに遠くまで来てもらうのは申し訳ない思いもあった。まだ故人の死を知らない友人も多いという。
「お付き合いで何百人来られても、見送る側が手抜きになる気がする。母も『構へん、構へん』と言ってくれると思う。でも、やっぱり、たくさんの人に母を見送ってほしかった。『このきれいな顔を、みんなもっと見てちょうだい』と大声で叫びたかった。
▽▽ ▲▲
死者の弔い方に正解はない。故人を最も知る家族であっても、迷いは尽きない。大阪市天王寺区にある浄土宗一心寺の門をくぐると、そうした思いが強くなる。大阪では古くから「一心寺さん」と親しまれるこの寺には、人間の遺骨で造られた等身大の骨仏がある。
かつては喉仏(のどぼとけ)などの一部を分骨する遺族が多かったが、最近ではすべて納める人が多いという。前住職で長老と呼ばれる高口恭行師は「核家族化が進んで墓地や仏壇のない家が多いことも無関係ではないと思います。骨仏になれば無縁化せず、寂しくないと考えるのでしょう」。
戦災で6体が失われたが、戦後も10年おきに造られ、年内までに納められた遺骨で来春7体目が開眼する。すでに6月末で10年前を1万人余り上回る16万3千人分が集まった。通常の塑像とほぼ同じ工程で、仏像の型にパウダー状にした遺骨と石膏(せっこう)を混ぜたものを流して形を造るという。
恵美さんの母の遺骨もここに入る。祖父母のときもそうした。「お墓を建てても、私には娘だけ。いずれお参りする家族が途絶えるかもしれないという思いもあります」
境内には、恵美さんのような納骨希望者や参拝客が後を絶たない。一方で、いったんお骨を預けた人が突然、返却を求めるケースも少なからずある。「墓地でなくてよかったのか」「大勢の人と一緒に祭るだけでいいのか」という迷いだ。
祖父の代から骨仏の制作にあたる彫刻家、今村源氏は「一心寺のような存在はいつの世にも必要だし、自分が造る骨仏に意義を感じてくれる人がいるのは大変な光栄」としながらも、こう付け加えた。「私自身、遺骨が入るべき本来の場所は骨仏とは違うのではないかという思いも正直あります」
▽▽ ▲▲
「東京・生と死を考える会」世話人で、葬儀社に勤める桜井豊さんは先月、忘れられない葬儀に出会った。夫を亡くした50代の夫婦。妻は、僧侶の代わりにキーボードとバイオリン奏者を会場に呼んでもらった。
演奏曲はサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」。新婚時代、小さなアパートで聴いた2人の思い出の曲だった。妻は前奏が始まった瞬間、崩れ落ち、慟哭(どうこく)した。
桜井さんは「葬儀は死者を死者として受け止めるための大切なプロセスであり、おざなりにすれば区切りの付け方を永遠に奪われることになる。形式にこだわるより、自分なりの方法で、納骨するまで泣いたほうがいい」と話した上で、簡素化だけを目的にした最近の葬儀の風潮については、こう釘(くぎ)を刺す。
「例えば、一緒に住んでいなくても、正月にお年玉をくれる祖父や祖母がいつの間にか消えていたら子供はどう思うか。言葉では説明し尽せない人の死を否応なく突きつける葬送の場は、命の尊さを伝える最高の場所だと思うのです」
幸いにも、小学生になる恵美さんの娘や、そのいとこたちは、祖母の死を実感していた。出棺が近づくまで何度も棺桶をのぞきこんでは声を上げて泣き、その都度、顔をなぜた。大粒の涙が遺体のほおに落ちた。
「おばあちゃん、お別れや」「今までありがとう」・・・。
サルは、他のサルが死んでも、自分の未来の姿とは思わないという。「死」という概念を持つ動物は人間だけである。人間だけが悲しみ、悩み、恐れ、それを乗り越えて生きていかねばならない。死を考えるのは、人間だからである。=おわり
(連載は、皆川豪志、徳光一輝、島和稔、西川正孝、松本学、乙津綾子が担当しました)』
義父が逝き、父が逝ったのはその10年後。そして父には弟夫妻までもがこの世を去ってしまった。父には妹の死がとてもきつかったようで、その妹の檀那様が逝ったときの辛さといったら。肺気腫を患った父が緊急入院したとき、元気にお見舞いに来てくださった、その叔父が先に逝ってしまうとは思いも寄らなかったと思う。出来ることなら一番先に逝って、そんな悲しみを味わいたくはないけど、こればかりは。。。
結局義父にも、父にもお茶一杯汲んであげることなく逝ってしまった。今頃二人で笑顔でも交わしていると良いけど。。。遺された二人の奥さんが元気で居ることが私たちの救いになっています。これからも見守り続けてください。
『白いユリや紫色のカトレアをあしらった小さな祭壇には、孫の幼稚園で撮った故人お気に入りの写真が遺影として飾られ、両脇の「親族一同」という供花だけが目立っていた。今年3月、堺市の市立斎場で営まれた井上恵美さんの母、啓子さん(享年55)の葬儀は典型的な「家族葬」だった。
胆管がんで昨年10月から入退院を繰り返した末の最期だった。遺体には、買っただけでほとんど袖を通すことのなかった赤いバラの柄のツーピースを着せた。長い闘病生活をねぎらい、風呂で全身を洗ってあげる湯灌(ゆかん)もした。派手さはなくとも、心を込めて見送ったつもりだった。それでも恵美さんには心残りがあった。
「友達の多い人だったから、もっとにぎやかにお別れさせたほうがよかったかな、と・・・」
家族葬を選択したのは恵美さん本人だった。小さな孫たちも含めた20人の親族を除けば、参列者は通夜も併せて計10人。一家が大阪北部から堺に越して2年ほどだったこともあり、知人らに遠くまで来てもらうのは申し訳ない思いもあった。まだ故人の死を知らない友人も多いという。
「お付き合いで何百人来られても、見送る側が手抜きになる気がする。母も『構へん、構へん』と言ってくれると思う。でも、やっぱり、たくさんの人に母を見送ってほしかった。『このきれいな顔を、みんなもっと見てちょうだい』と大声で叫びたかった。
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死者の弔い方に正解はない。故人を最も知る家族であっても、迷いは尽きない。大阪市天王寺区にある浄土宗一心寺の門をくぐると、そうした思いが強くなる。大阪では古くから「一心寺さん」と親しまれるこの寺には、人間の遺骨で造られた等身大の骨仏がある。
かつては喉仏(のどぼとけ)などの一部を分骨する遺族が多かったが、最近ではすべて納める人が多いという。前住職で長老と呼ばれる高口恭行師は「核家族化が進んで墓地や仏壇のない家が多いことも無関係ではないと思います。骨仏になれば無縁化せず、寂しくないと考えるのでしょう」。
戦災で6体が失われたが、戦後も10年おきに造られ、年内までに納められた遺骨で来春7体目が開眼する。すでに6月末で10年前を1万人余り上回る16万3千人分が集まった。通常の塑像とほぼ同じ工程で、仏像の型にパウダー状にした遺骨と石膏(せっこう)を混ぜたものを流して形を造るという。
恵美さんの母の遺骨もここに入る。祖父母のときもそうした。「お墓を建てても、私には娘だけ。いずれお参りする家族が途絶えるかもしれないという思いもあります」
境内には、恵美さんのような納骨希望者や参拝客が後を絶たない。一方で、いったんお骨を預けた人が突然、返却を求めるケースも少なからずある。「墓地でなくてよかったのか」「大勢の人と一緒に祭るだけでいいのか」という迷いだ。
祖父の代から骨仏の制作にあたる彫刻家、今村源氏は「一心寺のような存在はいつの世にも必要だし、自分が造る骨仏に意義を感じてくれる人がいるのは大変な光栄」としながらも、こう付け加えた。「私自身、遺骨が入るべき本来の場所は骨仏とは違うのではないかという思いも正直あります」
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「東京・生と死を考える会」世話人で、葬儀社に勤める桜井豊さんは先月、忘れられない葬儀に出会った。夫を亡くした50代の夫婦。妻は、僧侶の代わりにキーボードとバイオリン奏者を会場に呼んでもらった。
演奏曲はサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」。新婚時代、小さなアパートで聴いた2人の思い出の曲だった。妻は前奏が始まった瞬間、崩れ落ち、慟哭(どうこく)した。
桜井さんは「葬儀は死者を死者として受け止めるための大切なプロセスであり、おざなりにすれば区切りの付け方を永遠に奪われることになる。形式にこだわるより、自分なりの方法で、納骨するまで泣いたほうがいい」と話した上で、簡素化だけを目的にした最近の葬儀の風潮については、こう釘(くぎ)を刺す。
「例えば、一緒に住んでいなくても、正月にお年玉をくれる祖父や祖母がいつの間にか消えていたら子供はどう思うか。言葉では説明し尽せない人の死を否応なく突きつける葬送の場は、命の尊さを伝える最高の場所だと思うのです」
幸いにも、小学生になる恵美さんの娘や、そのいとこたちは、祖母の死を実感していた。出棺が近づくまで何度も棺桶をのぞきこんでは声を上げて泣き、その都度、顔をなぜた。大粒の涙が遺体のほおに落ちた。
「おばあちゃん、お別れや」「今までありがとう」・・・。
サルは、他のサルが死んでも、自分の未来の姿とは思わないという。「死」という概念を持つ動物は人間だけである。人間だけが悲しみ、悩み、恐れ、それを乗り越えて生きていかねばならない。死を考えるのは、人間だからである。=おわり
(連載は、皆川豪志、徳光一輝、島和稔、西川正孝、松本学、乙津綾子が担当しました)』
義父が逝き、父が逝ったのはその10年後。そして父には弟夫妻までもがこの世を去ってしまった。父には妹の死がとてもきつかったようで、その妹の檀那様が逝ったときの辛さといったら。肺気腫を患った父が緊急入院したとき、元気にお見舞いに来てくださった、その叔父が先に逝ってしまうとは思いも寄らなかったと思う。出来ることなら一番先に逝って、そんな悲しみを味わいたくはないけど、こればかりは。。。
結局義父にも、父にもお茶一杯汲んであげることなく逝ってしまった。今頃二人で笑顔でも交わしていると良いけど。。。遺された二人の奥さんが元気で居ることが私たちの救いになっています。これからも見守り続けてください。