音楽って素晴らしい♪

 音楽だけのことを綴っているわけではありませんが、音楽の素晴らしさが伝えられたらと始めました。大きく路線が変わることもしばしばですが、どうぞ宜しくお願いします。

2007年08月

『脱出90秒』

 8月21日付地元紙『正平調』では、沖縄で起こった航空機爆発事故に関連して、こんな風に述べられていたので、そのまま引用させていただきます。

 『航空機に「脱出90秒」のルールがある。事故の際、すべての乗客乗員が90秒以内に機外へ逃げられる。これが航空機に課せられた世界共通の基準という◆事故の衝撃で開かない扉も出る。だから、いくつかの扉が使えなくても90秒で緊急脱出できるのが前提である、扉を開けると、圧縮空気で滑り台のような脱出装置が飛び出す。これに要するのがざっと10秒。残り80秒が生死の分かれ目といえる◆沖縄・那覇空港で、中華航空の旅客機が炎上した。すさまじい炎と煙である。たくさんのけが人が出たのでは、いや犠牲者も・・・と不吉な思いにかられた。第三次にならなくてなによりだが、乗客の話を聞けばかなり危ない状況だったようだ◆着陸して「ベルト着用」のサインが消えると、機内にホッとした空気が漂うものだ。乗客がエンジン部分の火災に気づいたのは、そのときだった。だが、扉が開き、膨らんだ脱出装置から機外へ。爆発、炎上はその直後だから、まさに90秒の脱出である◆エンジン火災の場合、火元を風下にして機体を止める。これが緊急時の基本と聞いた。偶然だろうが、今回の中華航空機でもttも激しく燃えたのは、風下側のエンジンのようだ。もしも風上側だったら、そして爆発がもっと早かったら・・・と想像するとぞっとする◆駐機場の航空機が燃えた事故は、記憶にない。空の旅への信頼を損なう火災であり、原因を徹底して究明してもらいたい。同時に、「脱出90秒」に問題がなかったのか、今後に活かす詳しい分析も欠かせない。』
 
 命からがら。とはこのことだったと思う。乗客、乗員に怪我は無かったと聞いて本当に良かったと思う。ただ、消火作業に当たられた方が熱中症で倒れたとのこと。猛暑の中での消火作業は困難を極めたと思う。原因が見つかり、是非今後に活かして欲しいと願うばかり。

『語り継ぐ戦争体験』

 今日付け地元紙のくらし欄には、語り継ぐ戦争体験 「孫たちへの証言」節目の20集として掲載された記事。そのまま引用させていただきます。

 『大阪の出版社「新風書房」が毎年夏に発行している戦争文集「孫たちへの証言」が今年20集を迎えた。編集を担当してきた福山琢磨さんに寄稿してもらった。

 記憶は年とともに風化する。しかし文学にしておけば次代までも生き続ける。こんな思いで「孫たちへの証言」と取り組んできた。初めは自分史教室の作品集で、受講生に与えたテーマは「私の8月15日」。どこで何をしていたか、どんな1日であったかを書いてもらった。人生の大きな節目である「戦争」を束ねて輪切りにしてみようとの思いからだ。

 朱(あか)に染まったどす黒さが渦巻いていた。三集から一般公募に切り替え毎年8月に出版した。これまでの応募総数は1万3373編、掲載したのは1599編である。

 ■ドラマ化も

 国内で遭遇した空襲や、中国やソ連などからの逃避行など、悲惨な戦争体験がつづられた。決して語られることのなかった“加害者としての葛藤”も少なくない。

 18集の「父からの一通の手紙」。大阪の土林由美子さんは、肝試しで中国人の刺殺を命じられた父(鹿児島県在住)の苦悩を知った。沈黙を続けたそのわけが分かり、父との距離が縮まったという。

 埋もれていた資料の発見にも遭遇した。神戸の山田貴子さんが11歳で証言した「震災で発見された祖父からのメッセージ」。屋根裏から落ちてきた段ボールには手紙に混じり、フィリピンで日本軍が発行した新聞「ニッポンゴ」が詰まっていた。

 舞台やテレビドラマになったものもある。東京の中村登美枝さんが14集に寄せた、子どもたちを連れて北朝鮮から逃げ帰った話は、山田太一さんの脚本で、劇団民芸が舞台化。東京の星野光世さんが15集に書いた「東京大空襲で両親、兄、妹を失い、3人が孤児に」はドラマとなり、テレビで放送された。

 ■最高齢は100歳

 投稿者の高齢化が目立つ。当時20歳だった人が82歳だから無理もない。過去の最高齢は98歳だったが、ついに百歳が出た。北海道の久保田勇さんである。お手紙には「残された人生も少なくなり、ぜひ生きた証にしたい」と書かれていた。90歳以上が17人というのも今回の特徴である。

 一方、戦争を知らない世代も増えている。母親の遺品から若いときに書いた引き揚げの手記が出てきた。「知らないことばかりで1600字にまとめるのに難儀しました」とあった。地域のお年寄りから話しを聞いてくださる50代の女性もいる。

 正直言ってこの証言集をどこまで続けられるか、心配であった。今までの推移からすると毎年150~200も応募が減り続けており、今年は200を割り込むのではないかと思った。

 しかし、ほぼ昨年並みにとどまったのでほっとした。だが安心はできない。高齢化が進み一人称で戦争を語れる人が年々減っているのは事実だ。「いまも戦争体験を募集しているのを知り、最後と思い投稿します」と手紙を添えてくれた人もあった。

 聞き書きも含め戦争の記録作業は今をおいてないとの思いをますます強くした。親の手記など、新たな書き手にも期待している。一人一人の体験が、これだけの冊数に盛り込まれると、庶民の戦争史として大いなる重みを持つ。それを感じ取ってもらったのか「バックナンバーをそろえたい」との声も多く、うれしい悲鳴をあげている。(新風書房社長)

 ふくやま・たくま

 1934年鳥取県生まれ。カルチャーセンターなどで「自分史講座」の講師も努める。』

 地元淡路島で『父の15年戦争』を発表した人がいらっしゃる。やはり、『一人称で語れる』という言葉には凄く重みを感じる。

 何故か戦争中の事故で亡くなった祖父には弟のお墓はとてつもなく大きい。軍人さんだったから。という理由らしいことを知ったのは私が随分大きくなってからだった。被爆の犠牲になった人、それぞれ犠牲者は少なくないはずなのに、何故か軍人さんだった人の墓だけがこんなに立派だなんて。

 まるで蒸し暑さとの戦いの様な今日8月15日。二度とこのような戦争が起きないことを祈るばかり。

『思いはせ 耳澄ます』

 今日付け地元紙の文化欄で見つけたタイトルは<現代>の透視図 記憶と慰霊 その下として思いはせ 耳澄ます 犠牲の物語に収まらずとある。そのまま引用させていただきます。
 
 『戦争の記憶は「靖国」と結びつけて語られる。明治の天皇制国家で戦死者の追悼施設として発足した靖国神社は、近代日本の国民意識を奥底から規定した。だが今、沈黙に閉ざされた多様な記憶が語りだされ、その意識は揺らぎ始めている。「国民の物語」は、どんな現れ方をしているのか。

 ▽国民の虚構

 「親しい人を失った者はだれも、圧倒的な喪失状態を埋めるため市の意味づけを求める。特に戦死は不条理だから、遺族は侵略戦争と言われ“犬死に”とされるのには耐えられない。そこで求められるのが“尊い犠牲”という考え方だ」。東大教授(哲学)の高橋哲哉は、靖国を支える心情を分析する。
 
 例えば小泉純一郎前首相が2001年、就任後初の靖国参拝をした際の談話にも「今日の平和と繁栄が、(戦死者の)尊い犠牲の上に築かれている」という一節がある。

 「靖国は神道という伝統を身にまとうが、根底にある論理は奥州の国民国家と共通する。戦死者を尊い犠牲としてたたえ、顕彰し、生者がその感情を共有することで“国民”という虚構を成り立たせる。靖国はそこで、遺族の喪の感情を名誉や喜びの感情に変える“感情の錬金術”の装置として機能した」
 
 高橋によると戦後日本の国民意識は、戦死者の死を悼み、悲しむ膨大な遺族感情を背景に出発する。「死者の記憶は、苦悩や喪失より栄光の記憶として刻まれ、不都合な記憶は抑圧される。アジアへの加害は忘却し、被害の記憶が選択的に前面に出る。例えば被爆の記憶も“唯一の被爆国”という言葉で、朝鮮人などさまざまな民族の被爆は忘れられていく」

 自国の死者を「尊い犠牲」として特権的に位置づける被害の共同体、高橋はそれを「哀悼の共同体」と名付ける。

 ▽揺らぐ意識

 だが東京外大教授(政治思想)の岩崎稔によると、戦後日本の国民意識は1990年代になると揺らぎ始める。「従軍慰安婦の女性が旧日本軍の加害を証言するなど、見えなかった戦争の語りが姿を現す。冷戦崩壊もあり、戦後日本が暗黙の前提にしていた歴史認識が、そのままでは通用しなくなる。“戦争の記憶”が一枚岩でなく、いかに複雑で多様であるかが、認識されていく」

 亀裂が入り始めた「国民の物語」を修復するために探られるのが、“実証主義”の装いと岩崎は言う。「だが、手段としての“実証主義”にすぎない。沖縄の“集団自決”でも軍の“強制”を否定しつつ、住民に手りゅう弾を配るなどの構造的な強制性を見ない。あるのは“物語”を維持する欲望だけで。現実に何が起きたのかという、出来事への歴史感覚はない」

 安倍晋三首相が従軍慰安婦への「狭義の強制性」を否定し、日本に謝罪を求める米下院の異例の決議に結びついたのも、その一例と岩崎はみる。

 「国民の物語」の重しを押しのけるように語りだされる記憶。「だが証言者は次の時代にはいなくなる。私たちの課題は証言者の記憶をどう受け継ぎ、どう想起するかということに移る」

 一方で靖国をめぐっては、麻生太郎外相が唱える無宗教化を前提とした「国営化」私案など、その機能を次の時代につなげる模索も続く。
 
 ならば靖国の「尊い犠牲」の論理に収まるのではなく、抑圧される多様な記憶に道を開く「慰霊の形」は、どう思い描けばいいのだろう。

 ▽意味を超えて

 例えば沖縄大准教授の屋嘉比収は、沖縄の「平和の礎(いしじ)」を思い浮かべる。米軍兵士、沖縄の住民も含め沖縄戦で死んだ24万人の名を刻んだ追悼の碑だ。「6月23日の慰霊の日には体験者が子や孫、ひ孫を連れて重箱を広げ、肉親の死者の名をなぞり、酒を手向けて涙する」

 高橋哲哉は言う。「人の死はのこされた人間の意味づけを超えた存在。それを一つの物語に回収するのが靖国だ。だが“平和の礎”は名を刻んだ石だけで、“物語”は強制されない。遺族はその名に指で触れて、涙を流すだけだ。死者の顕彰でなく、悼みと悲しみを共有するということだ」

 あるいは「集団自決」の壕(がま)の前で、惨劇はなぜ起きたのかに思いをめぐらすことかもしれない。慰安婦の証言に、自分ならどうだったかと想像することかもしれない。「戦争の記憶」に耳を澄ますこと。それは戦後日本が私達に示す、あり得る道の一つなのではないだろうか。(敬称略)

 (共同通信記者・金子直史)』

 「従軍慰安婦」という言葉は好きじゃない。そんな道具にされた女性たちがいたこと。何だか日本人として情けない限り。

 戦争に勝ったら何でもあり?

 同じ人間なのに、どうしてそんなことが許されたのだろう?

 また、竹槍で鬼畜米兵!と叫んでいた時代があり、果たして鬼畜はどっちなんだ?と思えてしまう。  と、今だからこんなことが言えるのかな?

『「いのち」「子ども」見つめ』

 と題して紹介されていたのは、8月7日付地元紙の文化欄。灰谷健次郎企画展が神戸文学館で開かれている案内文をそのまま引用させていただきます。

 『神戸市で生まれ、育った作家灰谷健次郎さんの足跡をたどる企画展が神戸文学館(神戸市灘区)で開かれている。きちょうめんな文字が並ぶ原稿の束、教え子たちと編んだ文集や本、子どもに囲まれて穏やかな表情を見せるモノクロ写真。その目はいつも、「いのち」と「子ども」を見つめていたと、あらためて知る。(新開真理)

 灰谷さんは1935年、同市兵庫区生まれ。私立小学校の教師を17年間勤めた後、作家に、昨年11月、食道がんのため72歳で亡くなった。

 企画展では、灰谷健次郎事務所から関係者の協力を得て、「兎(うさぎ)の眼(め)」などの自筆原稿や著作の初版本、翻訳本、かかわっていた同人誌、写真などを幅広く紹介。家族らに残した遺言書のコピーや、小説「天の瞳」の絶筆など、今回、初公開された資料もある。

 沖縄戦で砲弾の中を逃げ惑い、後に心を病む父と、その苦しみを知ろうと懸命に生きる「ふうちゃん」の姿を、神戸を舞台に描いた「太陽の子」は、代表作の一つ。その取材ノートは、最初に主人公の父の自殺に関する記述があり、灰谷さんが長兄の自死と向き合い、作品を生み出した経緯を伝える。

 また、1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件で、新潮社の週刊誌「フォーカス」が被疑者の少年の顔写真を掲載したことに抗議し、すべての版権を引き揚げた件に関して、自身の考えを記した原稿もある。

 人の生き死について、考えることをやめなかった灰谷さん。「いのちはなやぐとある人はいったが、いのちは燃えるものであり、いのちは歌うものである。そうある社会をつくりたいと心より願う」。そんな言葉も紹介されている。

           ◇

 企画展「灰谷健次郎の足跡」は、前期(9月2日まで)は児童書を中心に、後期(9月3日~10月30日)は教育や社会に対する発言、詩を中心に展示、同館は水曜休館。電話078・882・2028』

 知らない場所じゃないので、行ってみようかという気になる。ただ、始めたばかりのバイトのシフトが。。。神戸へ出た翌日が朝一番というのはやはりきついものがある。と、すっかりシフト中心に回る生活になってしまった私。

『昭和天皇「禍根残す」』

 というタイトルを見つけたのは、8月4日付け地元紙。靖国A級戦犯合祀と書かれている。そのまま引用させていただきます。

 『靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に対する昭和天皇の考えとして「戦死者の霊を鎮めるという社(やしろ)の性格が変わる」「戦争に関係した国と将来、深井禍根を残すことになる」との懸念を、故徳川義寛元侍従長が歌人の岡野弘彦氏に伝えていたことが3日、わかった。
 
 昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたことは、富田朝彦元宮内庁長官のメモなどで判明しているが、具体的な理由までは明らかになっていなかった。A級戦犯合祀をめぐる議論にあらためて一石を投じそうだ。

 合祀への懸念は、昭和天皇の側近トップだった徳川下侍従長が1986年秋ごろ、昭和時代から皇室の和歌の指導に当たってきた岡野氏に明かした。岡野氏も昨年末にまとめた昭和天皇の和歌の解説書「四季の歌」の中で触れている。

 岡野氏によると、徳川元侍従長が昭和天皇の和歌数十首について相談するため、当時岡野氏が教授を務めていた国学院大を訪れた。

 持ち込んだ和歌のうち「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」という一首が話題になり、岡野氏が「うれひ」の内容を尋ねると、徳川元侍従長がA級戦犯合祀に言及。「お上(昭和天皇)はA級戦犯合祀に反対の考えを持っておられた。理由は二つある」と切り出した。

 その上で「一つは(靖国神社は)国のために戦に臨んで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのにそのご祭神の性格が変わるとお思いになっておられる」と説明。

 さらに「戦争に関係した国と将来、深井禍根を残すことになるとのお考え」と名言したという。

 元侍従長は「こうした“うれひ”をはっきりお歌になさっては差し障りがあるので少し婉曲(えんきょく)にしていただいた」と歌の背景を話したという。

 靖国神社をめぐっては、前年の85年8月15日、中曽根康弘首相(当時)が閣僚とともに公式参拝。中国などの反発を招き、翌86年8月の参拝を見送った経緯がある。

 昭和天皇は戦後、靖国神社を8回参拝したが、A級戦犯合祀が明らかになる前の75年11月が最後だった。現在の天皇陛下は即位後、参拝していない。』

 終戦を前に、戦いに関係した方をいとわず犠牲となられた方全ての人々のご冥福を改めてお祈りします。

 また、わずか14歳で兵士にさせられた人たちがいたこと。私は決して忘れてはいけないと思うのです。

 昭和天皇が仰った、『禍根』というお言葉に全てが託されている気がしてならないのです。
livedoor プロフィール
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ