というタイトルを見つけたのは11月15日付け地元紙の文化欄。更に京都大で記念典などとある。そのまま引用させていただきます。

 『物理学の世界で、1905年は「奇跡の年」と呼ばれる。アインシュタインが歴史的論文を3つも書いたからだ。その余韻さめやらぬころ、後に物理学の新分野を開くことになる。2人の巨人が極東の島国に生まれた。湯川秀樹と朝永振一郎。大学の同級生の2人は、かなり似通った人生を歩み、それでいて対照的だった。生誕から百年。2人が学んだ京都大では、同大総合博物館(京都市左京区)で「生誕百年記念典」を開催。写真や論文などで、2人の業績を振り返る展示だ。(武藤邦生)

 共通性と対照性が同居

 湯川(1907-81)と朝永(06-79)は、ともに京都大教授の家に育ち、京都一中、第三高等学校、京都大理学部を学んだ。朝永が1学年先輩だったが、朝永の病気もあり、三高以後は同学年となった。
 
 2人とも優秀だったが、試験で常に満点の「秀才型」朝永に対し、湯川は教科書以外の解法を探す「天才型」。独創的な仮説を提唱する湯川と、整然とした理論を構築する朝永の対照的な学風が、すでにうかがえる。

 2人が大学に入学した26年は、物理学の大革命の年だ。従来の物理学では理解不能な、ミクロの世界を記述する「量子力学」が誕生したのだ。

 「量子力学の誕生は物理学だけでなく科学全体における二十世紀最大のエポック。2人はこの極めて特殊な時代に居合わせた、いわば“時代の子”だった」と、京都大名誉教授の佐藤文隆・甲南大特別客員教授は話す。事実、2人と近い世代には、ほかにも「時代の子」の大物理学者が集中する。
 
 2人は同じ研究室で、机を並べて量子力学を学んだ。教科書などない新分野で2人の“先生”は、主にドイツ語の原論文だった。
 
 34年、大阪大に移っていた湯川が、第一論文「素粒子の相互作用について1」を書き、その中で「中間子」という未知の粒子を予言。47年に存在が確認され、理論の正しさが証明された。湯川には49年、日本初のノーベル賞が贈られた。
 
 そのため湯川の主業績は、一般に「中間子の存在の予言」だとされる。だが「中間子は“一例”にすぎない」と、佐藤氏は指摘する。「湯川の業績は、“素粒子物理”という新分野を創始したこと。中間子はそれを説明するための一つの具体例だった」という。

 一方の朝永は、戦争の真っただ中で、素粒子論に相対性理論を取り入れた「超多時間理論」を完成。戦後の48年、それを実際の計算に応用した「くりこみ理論」を発表した。朝永も65年にノーベル賞を受賞した。

 「二人の業績は物理学にとどまらない。文化全般にわたっての巨人だった」と、京都大起訴物理学研究所の九後太一所長はいう。

 同研究所は湯川のノーベル賞受賞を記念して設立されたが、その運営精神には2人の学問に対する思想が反映されているという。「欧米の研究所の雰囲気を導入し、自由活発な議論ができる、新しい研究システムをつくった。そのために関連の法律まで改正した」と九後氏は話す。

 ともに平和運動にも尽力した。核兵器の脅威が増す中、2人は科学者による思想を超えた平和会議「パグウォッシュ会議」に参加し、国内では「科学者京都会議」の設立を呼びかけた。

 そして2人とも、一般書を含め大量の著作を残した。

 「学者」としては、正反対の後半生だった。湯川は退官まで研究を続け、結果には恵まれなかったが、壮大なテーマに取り組んだ。朝永は研究の第一線を退き、東京教育大(現・筑波大)学長、日本学術会議会長などとして活躍した。

 2人の人生は、晩年に至っても、「共通性」と「対照性」が同居していたようだ。

 記念典は、来年1月28日まで。同博物館?075・753・3272』
 
 アインシュタイン博士は日本にも足を運ばれたことがあるらしい。さて、今の日本をご覧になって発せられる第一声は。。。?