2月4日付け地元紙のオピニオン欄には、ふるさと知の紀行 シリーズの44回目には白砂青松の象徴 保護に父子奔走 として貴重な自然の旅人のことが紹介されていましたので、そのまま引用させていただきます。

 『淡路島 通う千鳥の無く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守
 百人一首に選ばれたこの歌は平安後期の歌人、源兼昌の咲く。冬の夜に、須磨の関に近い宿でチドリの声を聞いた。チドリは連れ合いを求めて鳴くとされる。いとしい人と離れて任に当たる関守に、思いを重ねた。

 チドリの仲間は国内に12種いるが、歌のチドリは、シロチドリとされる。冬の海岸にいるのは、この鳥だけなのだ。スズメより一回り大きく、砂浜や河口に生息する。海岸線の埋め立てで全国的に減り続けている。

 淡路島ゆかりのシロチドリを、40年にわたり、研究・保護してきた父と二人の息子がいる。洲本市五色町の獣医師・故山崎千里(ちさと)と、長男で獣医師の博道(ひろみち)、二男の俊道(としみ)である。三人の物語は、そのまま島の開発と自然保護の葛藤(かっとう)の歴史でもあった。

 ■樹上でコオロギが鳴く

 話は1930(昭和5)年の夏にさかのぼる。

 洲本中(現洲本高)5年の山崎千里は、友人と小舟で福良湾の海浜生物を調べていた。櫓(ろ)が俺、漂着したのが湾内の無人島・煙島(けむりじま)であった。

 上陸すると、樹上から耳慣れない「ギィーッ」という声が聞こえてきた。声を頼りに探し当てたのが、大きく、ひげの長いコオロギだった。

 東大の動物学教室に標本を送ると、研究者が飛んできた。国内で初めて発見された南方系のクチキコオロギであった。

 これを機に東大農学部に新設された獣医学実科に進んだ。農林省の鳥獣試験場に勤め、敷地で軍馬を治療、戦後、獣医師の傍ら島の野鳥の調査に励んだ。

 ■卵が踏まれる

 50年代後半になると、農薬が使われ始め、野鳥が減った。60年代の高度成長期には、白砂青松で知られる西海岸の慶野松原にレジャー客が増えた。

 シロチドリの繁殖地でもあった。楽しそうな親子連れが、それと知らずに卵を踏みつぶす。
 
 「チドリが消えてしまう」

 旧洲本中時代の恩師、山本安郎が洲本市長になっていた。一市十町でつくる「淡路総合開発促進協議会」に実情を訴えた。71年、シロチドリは「淡路の鳥」に指定され、「淡路チドリを守る会」も結成された。

 ■雄も卵を抱く

 強力な助っ人が現れた。長男博通である。東京の獣医科大を出て北海道で働き、69年に帰郷、3年ほどシロチドリの研究に没頭した。島内を一周し生息数を調べた。1日20キロ。8日間で160キロ歩いた。10ヵ所の浜に計95羽。50年代ならどこの浜でも群れていたのに。

 数が多かったのが慶野松原。長さ3キロ幅0.5キロの砂浜だ。徹底して観察した。浜に竹を立てて、上から布をかぶせ「ブラインド」にした。カメラのレンズが出せる穴を開け、鳥が来るのをじっと待つ。西風の強い厳冬期も、繁殖期は朝夕通った。

 2年余りの研究で、年中見られるが、冬にいるのは11月に北から来て、春先に北へ。逆に夏いるのは、2月下旬に南から飛来、子育てして10月下旬まで島にいることが分かった。

 餌は2キロほど離れた三原川と大日川の中洲で、ゴカイやエビ、小さな虫などを食べる。

 4~7月、砂浜に足で浅い穴を掘り、くちばしで小石を投げ入れて巣にする。1シーズンに2回、各3個の卵を産む。

 巣に犬や猫が近づくと、親鳥は自ら羽を引きずって「擬傷(ぎしょう)」する。相手の注意をひきつけ、巣から遠ざける。

 そして、これまでは雌だけが卵を抱くと考えられていたが、日没後、20分ほどすると、突然、雄が交代することを突き止めた。雌は一晩中、エサを探し日の出前に戻ってくる。学会の定説を覆す大発見だった。

 卵がかえる割合は30%ほど。10個の巣を観察したところ、7個が失われた。原因は台風による流失と人に踏まれる例が各2件。野犬、浜の掃除、鳥の縄張り争いが各1件だった。

 ■人工繁殖に挑んだ

 父・千里らは、守る会に力を入れた。博通の生態写真や、パンフレットを町役場や学校に配った。慶野松原の砂浜の両端をチドリの生息地として立ち入り禁止の札を設けた。

 だが、危険な場所に卵を産むことも。父子は人工的に繁殖させて浜に返す方法を模索した。豊岡ではコウノトリの人工繁殖が試みられていた。

 環境庁の許可を得て72年5月、ふ卵器で人工ふ化に成功。餌には、鶏のひな用の飼料にゆで卵を混ぜ合わせたり、焼いたフナを粉末にしたりし、無事に育て上げた。数羽を放した。

 だが、79年に三原川水系が決壊し、中洲が流出、餌場がなくなり、状況は悪化した。

 ■リゾート開発の波に

 80年代になると、10年前の6割まで減った。慶野松原だけがあまり減らず「最後の楽園」となった。88年に淡路島リゾート構想が国の承認を受ける。開発が盛んになる一方で、旧津名町でも人工繁殖を行った。だが89年には砂浜に車を乗り入れる若者や、キャンパーが増えて、環境はさらに悪化した。

 淡路の自然愛好者たちの集まり「ネイチャー・アソシエイション」は、シロチドリの写真に「私達は淡路島が好きです」の言葉を添えてポスターにした。

 旧津名町の土器屋(からきや)海岸で護岸工事が始まり、生息地が破壊される心配があった。博通は「淡路野鳥の会」代表として先のグループと砂浜の保全を求めた。対策は取られた。

 91年に開発の速度が落ち、やや環境が戻った。

 93年、父・千里が78歳で他界した。博通は数年、チドリの人工繁殖に励んだ。しかし、減少は進み続けた。自然海岸は海岸線187キロのうち57キロ、砂浜は19キロになった。

 一方、二男の俊道も東京の農大を出て、地元の酪農協に勤める傍ら2人を助けていたが、73年、洲本の三熊山で、あのクチキコオロギを再発見した。父の発見から43年目、煙島以外から初の発見だった。研究に力を入れ、島内照葉樹林で次々と見つけた。毎日、夜間も通って生態を調べ上げた。大木の樹皮下にすむクチキコオロギは照葉樹林の象徴だった。

 白砂青松と照葉樹林。父と子は、淡路の海と山のシンボルを追い続けてきたのだ。現在、シロチドリは慶野松原でも数羽だけだという。博通は近く、人工繁殖を再開する。(敬称略)(編集委員・三木進)』

 涙ぐましい努力によって生態が明らかにされた、シロチドリとクチキコオロギ。自然が一杯の淡路島と思っていても実情は、砂浜は削り取られ、山は荒れ放題。歌に詠まれた時代からは千年余りだというのにこの変わりよう。自然が育んでくれたことへの感謝を忘れ過ぎてはいないだろうか。