1月24日付け地元紙、第一面で見つけた『針路』に、私が大好きな内橋克人氏が述べていらっしゃる。そのまま引用させていただきます。
『ブッシュ政権からの壮大な「負の遺産」を背にオバマ新政権がスタートした。
「レーガン革命以降の新自由主義に訣別」を掲げげ選挙を戦ったオバマ新政権は、ウォール街に象徴される「マネー」や、富を独り占めする「超富裕層」の抵抗を排しつつ、過去30年におよんだ新自由主義と袂を分かち、アメリカ史にかつてなかった「新しいアメリカ」を築くことができるのか。政権の歴史的意味はその一点にかかっている。
二つの歴史的意味
「新しいアメリカ」と「古いアメリカ」を識別する標識は明解だ。政府のもとに「正統な政府機能」を取り戻し、国内にあっては何よりも「所得細分配政策」における政府主導権復活の成否に示される。レーガンからブッシュに至る「小さな政府」指向は、政府自らこの基軸的な政府機能を放棄してきた。「富める者をほしいままに富ませることが、貧しい者の底上げにつながる」との理屈であった。アメリカでも日本でも現実はそうはならなかった。
現代アメリカには、病気になっても健康保険で医療機関にかかることのできない「無保険者」が4千5百5十万人も存在する。米国民の15.7%が無保険状態のまま放置されてきた(米国勢調査局・2007年)。さらに、たとえ民間の保険に加入していても保証内容が十分でない者が2千5百万人いる。肝心のときに十分な医療を受けることができない。ブッシュ政権下、03年からの4年間で60%も増えた。その大半が食を奪われたミドル層から輩出された。
アメリカの現行制度では、人員整理に遭い、失業すると、たちまち医療保険まで失い「無保険者」となってしまう。普通のアメリカ人にとって「ひとたび健康をそこなえばどうなるのか」の不安は日常のものだ。
これら無保険者、不十分保険者、合わせて人工の40%以上が、絶えざる「万一の不安」にさらされている。
新自由主義的市場原理主義のグローバル化(汎世界化)に歩調を合わせ、ごく普通に働き、ごく普通に暮らす人びとを脅かす「生存リスク格差」が世界化した。日本の「後期高齢者医療保険制度」は「国民皆保険」の理念を切り刻む鋭利なメスとなった。
オバマ新政権の「公的医療保険プログラム拡大計画」は、二つの歴史的意味をもつ。
第一に望むならだれでも「公的医療保険」に加入できるようにする。第二にその財源は「所得再分配政策」によって創出するところにある。所得再分配は新自由主義的市場原理主義に立つ「改革」政府にとって、いわば“禁じ手”にあたる。「格差ある社会は活力ある社会」と宣言し、格差拡大奨励政策を旨としたのが小泉構造改革であった。
新自由主義に訣別を宣言するオバマ新政権の「公的医療保険プログラム拡大計画」はその財源を、「富裕層優遇減税措置」(2010年期限切れ)の前倒し撤廃に求める。現行の35%をクリントン時代の39.6%に戻すだけで09年度で4百30億ドル(4兆3千億円)の増収となる(ブルッキングス研究所調査)。
国民皆保険の意義
1970年代初め、71.5%だった連邦所得税の最高税率がレーガノミックスの時代、28.0%へ。まさに富裕層への「超優遇税制」となった。クリントン時代にこれが39.6%になり、ブッシュ政権下で再び35.0%に引き下げられた。オバマ新政権はこれをクリントン時代の水準に戻し、増収分を財源に充てようというのだ(深刻化する経済危機で予定期限まで続行との観測も出ている)。
私たちの社会が「国民皆保険精度」を確率して50年を迎えた。「貧富のいかんを問わず、健康を害したものはだれでも医者にかかれる」という理念は、アメリカ社会制度調査団による「ワンデル勧告書」に財源がある。だが、それを営々と磨き上げたものは戦後民主主義の思想であった。「新しいアメリカ」のめざす灯がすでに私たちの手もとにある。
いま、踏み出した「新しいアメリカ」の「未来」に世界は目を凝らす。年金、医療におよぶ私たちの「国民皆保険」の理念を貶めてはならない。
(うちはし・かつと=評論家)』
「諭吉さん」はやはり友達が多い方が良いのだろう。あるところへあるところへと集まるようだ。「聖徳太子さん」だってそうだったような。というと、これは持っていない人の僻みになるんだろうなぁ。
まるで、働けど 働けど 我が暮らし。。。そのままのような庶民。田中真紀子さんの言葉をお借りすれば、ひな壇に並んだ人たちの暮らしぶりは。というと、大根1本の値段にさえ疎い(当り前か)というような。差があり過ぎる。だから先々に夢も持てない。
大企業に勤務していようが、いつリストラの憂き目に遭うかわからない時代になってしまって、安閑としていられないのが庶民たち。まるで、ひな壇に並ぶ人たちを支えるためにだけ喘いでいるような。
二院制だから良いのかどうか。甘い汁ばかりを吸っている人なら、そろそろひな壇から引きずりおろしても良いのじゃないかなぁ。
『ブッシュ政権からの壮大な「負の遺産」を背にオバマ新政権がスタートした。
「レーガン革命以降の新自由主義に訣別」を掲げげ選挙を戦ったオバマ新政権は、ウォール街に象徴される「マネー」や、富を独り占めする「超富裕層」の抵抗を排しつつ、過去30年におよんだ新自由主義と袂を分かち、アメリカ史にかつてなかった「新しいアメリカ」を築くことができるのか。政権の歴史的意味はその一点にかかっている。
二つの歴史的意味
「新しいアメリカ」と「古いアメリカ」を識別する標識は明解だ。政府のもとに「正統な政府機能」を取り戻し、国内にあっては何よりも「所得細分配政策」における政府主導権復活の成否に示される。レーガンからブッシュに至る「小さな政府」指向は、政府自らこの基軸的な政府機能を放棄してきた。「富める者をほしいままに富ませることが、貧しい者の底上げにつながる」との理屈であった。アメリカでも日本でも現実はそうはならなかった。
現代アメリカには、病気になっても健康保険で医療機関にかかることのできない「無保険者」が4千5百5十万人も存在する。米国民の15.7%が無保険状態のまま放置されてきた(米国勢調査局・2007年)。さらに、たとえ民間の保険に加入していても保証内容が十分でない者が2千5百万人いる。肝心のときに十分な医療を受けることができない。ブッシュ政権下、03年からの4年間で60%も増えた。その大半が食を奪われたミドル層から輩出された。
アメリカの現行制度では、人員整理に遭い、失業すると、たちまち医療保険まで失い「無保険者」となってしまう。普通のアメリカ人にとって「ひとたび健康をそこなえばどうなるのか」の不安は日常のものだ。
これら無保険者、不十分保険者、合わせて人工の40%以上が、絶えざる「万一の不安」にさらされている。
新自由主義的市場原理主義のグローバル化(汎世界化)に歩調を合わせ、ごく普通に働き、ごく普通に暮らす人びとを脅かす「生存リスク格差」が世界化した。日本の「後期高齢者医療保険制度」は「国民皆保険」の理念を切り刻む鋭利なメスとなった。
オバマ新政権の「公的医療保険プログラム拡大計画」は、二つの歴史的意味をもつ。
第一に望むならだれでも「公的医療保険」に加入できるようにする。第二にその財源は「所得再分配政策」によって創出するところにある。所得再分配は新自由主義的市場原理主義に立つ「改革」政府にとって、いわば“禁じ手”にあたる。「格差ある社会は活力ある社会」と宣言し、格差拡大奨励政策を旨としたのが小泉構造改革であった。
新自由主義に訣別を宣言するオバマ新政権の「公的医療保険プログラム拡大計画」はその財源を、「富裕層優遇減税措置」(2010年期限切れ)の前倒し撤廃に求める。現行の35%をクリントン時代の39.6%に戻すだけで09年度で4百30億ドル(4兆3千億円)の増収となる(ブルッキングス研究所調査)。
国民皆保険の意義
1970年代初め、71.5%だった連邦所得税の最高税率がレーガノミックスの時代、28.0%へ。まさに富裕層への「超優遇税制」となった。クリントン時代にこれが39.6%になり、ブッシュ政権下で再び35.0%に引き下げられた。オバマ新政権はこれをクリントン時代の水準に戻し、増収分を財源に充てようというのだ(深刻化する経済危機で予定期限まで続行との観測も出ている)。
私たちの社会が「国民皆保険精度」を確率して50年を迎えた。「貧富のいかんを問わず、健康を害したものはだれでも医者にかかれる」という理念は、アメリカ社会制度調査団による「ワンデル勧告書」に財源がある。だが、それを営々と磨き上げたものは戦後民主主義の思想であった。「新しいアメリカ」のめざす灯がすでに私たちの手もとにある。
いま、踏み出した「新しいアメリカ」の「未来」に世界は目を凝らす。年金、医療におよぶ私たちの「国民皆保険」の理念を貶めてはならない。
(うちはし・かつと=評論家)』
「諭吉さん」はやはり友達が多い方が良いのだろう。あるところへあるところへと集まるようだ。「聖徳太子さん」だってそうだったような。というと、これは持っていない人の僻みになるんだろうなぁ。
まるで、働けど 働けど 我が暮らし。。。そのままのような庶民。田中真紀子さんの言葉をお借りすれば、ひな壇に並んだ人たちの暮らしぶりは。というと、大根1本の値段にさえ疎い(当り前か)というような。差があり過ぎる。だから先々に夢も持てない。
大企業に勤務していようが、いつリストラの憂き目に遭うかわからない時代になってしまって、安閑としていられないのが庶民たち。まるで、ひな壇に並ぶ人たちを支えるためにだけ喘いでいるような。
二院制だから良いのかどうか。甘い汁ばかりを吸っている人なら、そろそろひな壇から引きずりおろしても良いのじゃないかなぁ。